考察.1 分裂した主人公

いまさらながら「仮面ライダー555(TV+劇場版)」を観ました。評判の通り、かなりひねくれていて、一筋縄ではいかない作品だった。魅力的な設定、陰惨な描写、混沌とした展開、とってつけたような最終回。いろんな意味から「おいおい、スゴいことになってるよ」と突っ込み要素満載で、最後まで気を抜くことができませんでした。というわけで、個人的に感じたことを綴ってみます。

■2人の主人公

序盤(1クール)を観て、まず驚いたのがコレ。仮面ライダーの基本フォーマットには「異形(敵)の力を手に入れた主人公が、苦悩しながら“バッタ男的外見のヒーロー”に変身して戦う」というのがあるんだけど、これを強引に分解!「異形(オルフェノク)の力を手に入れて苦悩する」主人公と、「“バッタ男的外見のヒーロー(ファイズ)”に変身して戦う」主人公を分けちゃった。「苦悩する役」と「ヒーローとして戦う役」が別なもんだから、「苦悩する役=木場くん」には、これでもかと言わんばかりの不幸と災難を与え、異形の力ゆえの罪と業を、再起不能なまでに背負わせしまう。対して、「ヒーローとして戦う役=巧くん」は典型的な巻き込まれ型主人公として、悩みを抱えることなくヒーローとしての自覚を成長させていくことが可能。


言うなれば見事なスタートダッシュでキャラを掘り下げた「木場くん」と、スロースターターで物語後半の活躍を期待される「巧くん」。将来的に共闘も対立もできる2人の主人公が織り成す交響曲(物語)に、名作の予感を感じたわけです。

■劇場版:パラダイスロスト

よって私的には1話から17話まで見て、劇場版ディレクターズカットを最終回としてみるのがおすすめだ。
http://comicmasterj.cocolog-nifty.com/blog/2005/09/post_91af.html

田畑由秋氏(マンガ脚本家)のアドバイスに従い、17話まで観たところで劇場版を観た。TV版とは違う物語というふれ込みで、TV版が放映中に上映された劇場版。これが完成度の高い「映画」で、茶化すのもはばかられるナイスな作品でした。世紀末救世主伝説的な世界観で、日本を支配した「オルフェノク」を「馬鹿っぽいモヒカン」に置き換えたら、まんまアレだよなぁ、とか不謹慎なことを考えたのは秘密だ(茶化してんじゃん)。


で、この劇場版はヒーローとしての戦いではなく「木場くん(苦悩担当)」と「巧くん(ヒーロー担当)」の関係に決着をつけることに主眼がおかれていました。詳細は省きますが、「木場くん」の退場と同時に「巧くん」が彼の背負う業と苦悩を受け継ぎ、伝統的な「仮面ライダー」として完成するところで幕を閉じたわけです。予定調和とも言えるスッキリなラストでした。

■17話以降のTV版

ひるがえってTV版。17話で「巧くん」がヒーローとしての自覚に目覚めたと思ったのも束の間。個性的なサブキャラクターに喰われて、なかなか成長しない(堀り下がらない)。そのため華麗なスタートを切った「木場くん」も、彼をおいて独走するわけにもいかず失速。2人の主人公を軸にした重奏(物語)は、不協和音を出しながら佳境に突入し、そのまま終幕となってしまいました。

※もっとも、この予定調和で済まさない不協和音こそが「仮面ライダー555(TV版)」の本質ともなったわけで、一概に否定するわけにはいかないところが悩ましいところ。

■2つの戦い

さて、2人の主人公には、役割に応じて異なる戦いが用意されていました。


▽木場くん(苦悩担当)の場合
オルフェノクになりながら、人として生きることが選択できるのか」という精神的な戦い。彼の葛藤は、「人類vs.オルフェノク」というマクロ視点の戦いを象徴していたように思います。


▽巧くん(ヒーロー担当)の場合
「身近な人を救うことができるのか」というミクロ視点の戦い。簡単な理由ですが、勝利するためにラスボスを倒さねばなりませんでした。


劇場版とTV版における、この2人の戦いの結末を比べてみましょう。

  木場くん 巧くん 結末
劇場版 敗北 未決着 世界(日本)はオルフェノクに支配されていました
TV版 未決着 勝利 世界は変わりませんがオルフェノクは絶滅するようです

2人が共に勝利できた時にだけ、ハッピーエンドが待っていたような気がしませんか。