韓流特撮『時空戦機レイフォース』


特撮ヒーロー作戦!さん経由で仕入れた情報ですが、韓国でこんな特撮が作られてるらしいです。


どこかで見たことある!っていうのは日本の特撮でもよくあることなので《そういう》論争はさておき、いろいろと興味深い作品だったりします。


本編ではなくプロモなのだからカッチョいいのは当然なんですが、演出に目新しい部分(マスクが光って素顔を垣間見せるるとこ)もあり、初見で「お、カッチョイイ!」と思いました。韓国には、日本では当たり前になってしまった特撮とアニメの演出技法の壁がないんだなぁ、というのが正直な感想です。その善し悪しは別にして、殺陣を見せなくても、かっこよくする方法ってあるんですね。


そう、このプロモ映像、殺陣が入ってないんです。約4分の映像なので気になりませんが本編でどんな殺陣になるのか、そもそも殺陣があるのか、興味津々です。


そして美少女、戦隊ヒーロー、巨大ロボットとてんこ盛りの物語にも興味津々。でっかい風呂敷で、ワクワクします。で、一番興味深いのが、このでっかい風呂敷のこと。これを制作してる韓国のT3 Entertainmentという会社は、"Auditon"っていうダンスゲームを中国で大成功させた会社で、Auditonの登録アカウントは1億(笑うしかない桁)を超えているんだとか。まさに濡れ手に粟。そんな会社が、突如特撮参入を決定して、この『時空戦機レイフォース』を発表したとかなんとか。要は、予算は唸るほどある、ということなんでしょう。


いずれにせよゲーム会社の特撮参入は、超新星シリーズにおけるコナミ参入を彷彿とさせます。ただ、超新星シリーズ3作品でコナミは事業から撤退したように、ビジネスモデルの異なる業種への挑戦は、同じエンタメといえど容易ではありません。


さて、この『時空戦機レイフォース』ですが、ビジネスモデルとしての勝機をどこに見いだしているのかが、想像つかないんです。むしろ、ノリだけで作ってしまったように見える。というのが正直な感想。


変身ヒーローと巨大ロボットならば子供向け玩具だと思えるのですが、それには耐久性と複雑な変形ギミックを満たす玩具を販売し、番組それ自体を「30分コマーシャル」としても成立させる必要があります。韓国でもパワーレンジャー(内容は日本放映版と同じ)が放映されているとのことなので、バンダイの玩具も販売されているはず。だとすればあの豪華なラインナップと渡り合わなければならないはずですよね。コナミ超新星シリーズから撤退したことを前例に考えると、かなり困難な闘いになるんじゃない?


巨大ロボットも出てたので、プラモデルやフィギュアかも。とは思うものの、だとすればガンプラと戦うことになるわけで、分はさらに悪くなります。


人口が日本の半数以下、かつ少子化も日本以上に進行している韓国で、日本の特撮のビジネスモデルが通用するとは考えにくいのです。

【トレビアン韓国】韓国発のSF特撮ドラマ「時空戦機レイフォース」が誕生!
http://news.livedoor.com/article/detail/4405129/
特殊撮影、CG、物語構成など、全てT3エンターテイメント社が進めており、
現在もクオリティーを高めるための研究が続けられているという。


現在もデザインの改良は重ねられているようで、テレビ放送は諸事情により
未定とのこと。


やはり、玩具会社やテレビ局は絡んでない様子。
ならばスタイリッシュな雰囲気から考えてDVD販売をメインに見据えているのでしょうか。とはいうものの、韓国の映像ソフト市場はワーナーブラザーズがDVD販売から撤退して、オンデマンド配信限定にするほどのコピー天国。映像ソフトによるビジネスモデルは成立しません。それに、もし視野を日本を含む外国に向けているのだとすれば、《どっかで見たことある》要素満載では、どうにもなりません。


残されたプランはネットワークゲームへの還元ですが、映像コンテンツとして成功しないことには元がとれませんし、番組が終わってからゲーム化しても効果は望めません。並行展開ならあるいはという気もしますが、それを狙ったゴンゾの「ドルアーガの塔〜the Recovery of BABYLIM〜」の惨状を見ても難易度は極めて高そうです。


《将来的に事業として成立させるための練習台》と考えればしっくりくるんですが、はたしてノウハウを溜めて次に繋げることができるのか。だとすれば、韓国の土壌でビジネスとして成立させたネットワークゲームのように、将来的に『時空戦機レイフォース』の血脈が日本に乗り込んでくるのかもしれません。ただ、そのためには何年もノウハウを研鑽する辛抱強い忍耐が求められます。


それゆえに、たいしたノウハウも残さぬまま歴史に埋もれていくのか。


はたしてどうなることやら。どっちに転んでも『時空戦機レイフォース』というコンテンツを、その顛末を追うことで楽しみたいなぁ、と思う次第。


どっとはらい

考察.4〆

ところで今朝始まった『仮面ライダーW』面白かったですね。設定やキャラクターがかなり練り込まれていて、とても安定感がありました。第一話にしてキャラが十分動いていたので、今後も安心して楽しめそうです。なにより前衛的になりすぎたシリーズから一転、分かりやすさを大切にしているもポイント高しです。というか、当初『仮面ライダーキバ』の次番組として企画された可能性もあるので、『仮面ライダーディケイド』を差し込んで開始時期を調節したためいろいろ余裕があったのではと思ったり。まぁ、どうでもいいというか、むしろ素敵なことなんですけどね。


閑話休題

罪と罰

考察.3でモモタロスが墓の中で眠っていたと述べたが、よくよく考えれば『仮面ライダー電王』の墓はもとから空だったのかもしれない。『劇場版 さらば仮面ライダー電王 ファイナル・カウントダウン』と併映された短編アニメ『モモタロスよ永遠に−イマジン終着駅−/劇場版(脚本:白倉伸一郎)』で、復活の前フリはされていたのたから。


さて、当初の『仮面ライダーディケイド』は歴代のレプリカ制作という《罪》を《お祭り》に転嫁して《罰(ばち)》を避ける企画だったはずだ。しかし、その計画は『仮面ライダーディケイド』の物語半ばにして潰えてしまった。《お祭り》と連呼しすぎて場の空気が《何でもあり》の方向へシフトしたのか、レプリカ制作の《罰(ばち)》を避けきれなかったのか、あるいは《儀式》を執行するプロデューサーの計略通りなのか、その原因を一視聴者に過ぎない僕の立場では計り知る術はない。はっきりしているのは、オリジナルのモモタロスが『仮面ライダーディケイド』に登場した瞬間から、《儀式》は潔くというかアッサリと予定調和を放棄して成り行き任せの《混沌》に身を委ねたということだ。


用意されたレプリカを取り込むだけのはずだった苟且(かりそめ)の《破壊者》は、真の《破壊者》として暴走を開始した。もちろんそれが悪とは言い切れない。レプリカではなく眠れる歴代を呼び起したからこそ、悔恨や慚愧の念と共に葬られた『仮面ライダー響鬼』の魂を鎮められたのだ。『仮面ライダーBLACK』と『仮面ライダーBLACK RX』の世界を二つに分けたことも、その成果と見なせるだろう。しかし、その一方で最大の《禁忌》が破られた。


仮面ライダーディケイド オールライダー対大ショッカー』の公開。


平成仮面ライダーにとっては神代に等しい前王朝、つまり昭和仮面ライダーへの《干渉》である。いや、『データカードダス 仮面ライダーバトル ガンバライド』の商品展開を見ても、『仮面ライダーディケイド』が昭和仮面ライダーの世界を旅するのは当初からの目標であったろう。ただしそれは一通りの《儀式》の手順を済ました後、すなわち『仮面ライダーディケイド』の物語を消化してから示唆する程度の予定ではなかったか。『仮面ライダーディケイド』は、平成仮面ライダークウガ〜キバ)を昭和仮面ライダーと等価のパッケージとすることを目的にしていたのだから。《干渉》が早すぎたのだ。


注意したいのは、昭和仮面ライダーの世界を《破壊》したことが《罪》ではないことだ。そこまで初代「仮面ライダー」は狭量ではないし、その程度のことならとっくに映画『仮面ライダー THE FIRST』『仮面ライダー THE NEXT』が犯している。ただ、それに登場した3人の仮面ライダーが【なかったこと】として『仮面ライダーディケイド オールライダー対大ショッカー』でもスルーされたように、昭和仮面ライダーの放つ輝きは強大すぎた。平成仮面ライダーのみならず、すべての仮面ライダーを取り込んで完結させる役割は『仮面ライダーディケイド』ではあまりにも力不足。昭和仮面ライダーの光にあてられて、逆に『仮面ライダーディケイド』の物語が破壊されてしまったのだ。


《罪》:【昭和仮面ライダーに触れた】こと
《罰》:【完結を許されない物語】になること


矛盾した設定、辻褄の合わない展開、投げっぱなしのラストシーン。この混沌こそ『仮面ライダーディケイド』の受けた《罰》だ。『仮面ライダーディケイド』の物語が、仮面ライダーシリーズの歴史に取り込まれてしまったと言ってもいいだろう。そのため、仮面ライダーの歴史が幕を下ろすまで旅を続けなければならなくなったのだ*1。ディケイドの本質は《破壊》であるから、彼はどの物語でも歓迎されず存在をかけて戦わねばならないだろう。修羅道や無間地獄とも呼ぶべき過酷な宿命だ。とはいえ救いがないわけではない。

俺たちはこれからも旅を続ける。
世界の壁を越え、仲間を作る。
その旅はやがて未来を変える。

最終回に放たれたこの台詞からは『仮面ライダーディケイド』が、《罰》に対して前向きであることが伺える。また、考察1.でも述べたとおり、ラストシーンでディエンドがディケイドに突きつけた銃口は【はるか未来の完結】の象徴だ。


仮面ライダーディケイド


それは平成仮面ライダー10周年の《お祭り》に捧げられた【罪と罰を体現する物語】のタイトルである。



どっとはらい

*1:二〇〇九年暮れに上映される《最終回の続き》の映画で物語が完結するなど期待しない方がいい、と思う。二〇一一年に迎える仮面ライダー生誕四〇周年までは、このまま突っ走るかもしれないのだから。

考察.3

祖父王の復活

仮面ライダーディケイド』が歴代の平成仮面ライダーをパッケージ化するために採った手法は画期的だった。従来ではいわゆる昭和仮面ライダーのように設定の矛盾に目をつむって「同じ世界の出来事」とする方法が一般的だった。しかしこれでは、先代の物語を次代の前座に貶める、あるいは敵の強さが無限にインフレーションする呪縛にとらわれるなどの問題が発生してしまう。そうした問題を回避するために『仮面ライダーディケイド』では、歴代のレプリカとなる物語を用意して、それを吸収・融合するようにしたのだ。なるほど、これなら歴代の物語を傷つけることなくパッケージ化できる。


とはいえ一部の宗教では神の偶像をつくることがタブーとされているように、歴代のレプリカを制作することもまた、歴代への冒涜と見なす向きもある。レプリカの制作に際して抽象化や改変を回避できない以上、それはオリジナルのアイデンティティーを破壊する行為にも等しい。考察2の冒頭に書いたプロデューサーたちが述べるネガティブな発言はここに由来しているわけだ。少なくとも僕は、従来のような設定を改ざんして強引に続編とするよりも、『仮面ライダーディケイド』の方法の方が歴代に対するリスペクトが強いと思っているのだが*1。いずれにせよ、それを自虐的に表現したのが「破壊者」という呼称である。レプリカを誰が制作するのかを問わなければ、「仮面ライダーディケイドの存在が、歴代のオリジナルの世界を破壊」することになるのだから。


さて、『仮面ライダーディケイド』では当初からメインライターを務めていた脚本家の会川昇氏が物語途中の十三話で降板している。その理由は発表されておらず、氏の「とても悲しいことがあって」というインタビューの発言から推察するしかない。それが何なのかはともかく、少なくとも《予定調和》が乱されたことは間違いない。また、もしかすると偶然かもしれないが時同じくして三十年以上続く仮面ライダー史上でも前代未聞な出来事が起きた。


平成仮面ライダー先々代の王、モモタロスの復活である。
通常なら墓に埋葬されて忘却を待っているはずだった『仮面ライダー電王』の新作劇場版の製作が決定したのだ。その理由がなんであれ、歴代のレプリカを用いて儀式を始める直前あるいはその直後に、オリジナルが墓の中からのっそり起き上がったのだからたまらない。オリジナルの目の前で、密かに用意したレプリカを儀式に用いるわけにもいかず、司祭が「いかがですか、モモタロス王も儀式に参加なさいませんか?」などと余計なことを口走ってしまったとしても、誰がそれを責められよう。


幸いなことに『仮面ライダー電王』は、物語としての続編を作りやすい終わり方をしていたため、儀式にそのまま加えても祟りが発生する危険性は少ないと思ったのかもしれない。かくして『仮面ライダーディケイド』の中で、レプリカではない本物の『仮面ライダー電王』の続編が描かれ、『劇場版 超・仮面ライダー電王&ディケイド NEOジェネレーションズ 鬼ヶ島の戦艦』も2009年GWに公開された。


この出来事を端緒にして『仮面ライダーディケイド』は混沌と化すことになる。
続きます。

*1:他にも『∀ガンダム』のように歴代すべてを黒歴史として包括する方法もあるのだが、それはシリーズ創始者のみ行使可能な禁断の大技である。石ノ森章太郎亡き今、仮面ライダーにそれが可能な人物は存在しない。

考察.2

祭祀

仮面ライダー東映公式サイトの各話あらすじ解説は、プロデューサーみずから執筆するというスタイルを伝統的にとっているのだが、今作『仮面ライダーディケイド』では《冒涜(ぼうとく》や《呪い》などといったネガティブなキーワードが頻発している。これらの言葉は、おそらくプロデューサーたちの真意である。『仮面ライダーディケイド』が実践した、リ・イマジネーション*1という作業が、歴代の墓を暴くに等しい罪深き所業であることをもっとも熟知していたのが彼らなのだから。


また、同じく『仮面ライダーディケイド』を指して《お祭り》という言葉も連呼されている。《お祭り》とは本来何か目的を成すための儀式であるから、《墓暴き》の《口実》なのであろう。『仮面ライダーディケイド』とは、その目的を遂行するための《口実》《儀式》であり、さらに言葉を選ばなければ《生け贄》《人身御供》といった類の尊き犠牲者なのだ。


ならば全三一話として企画された儀式『仮面ライダーディケイド』の目的、あるいは込められた願いとはいったい何だったのか。それは、第一話に登場した《王墓に眠る一人》紅渡の言葉に集約されている。

九つの世界に九人の仮面ライダーが生まれました。
それは独立した別々の物語。
しかし今、物語は融合し、そのために世界はひとつになろうとしています。
やがてすべての世界は消滅します。
ディケイド、あなたは九つの世界を旅しなければなりません。
それが世界を救うたったひとつの方法です。
あなたはすべての仮面ライダーを破壊する者です。
創造は破壊からしか生まれませんからね、残念ですが。

【いわゆる平成仮面ライダーの物語が九回繰り返された事象を叙事し、ひとつの物語としてまとめる】こと。すなわち「平成仮面ライダーのパッケージ化(白倉プロデューサー*2 )」こそ、『仮面ライダーディケイド』の存在理由だったのである。その真意は明白だ。いわゆる昭和仮面ライダーが『仮面ライダーSPIRITS(村枝賢一)』などをはじめとして今なお新鮮さを失わずにいられるのは、平成仮面ライダーが十年の歴史を築きその偉大さを広め続けた結果である。しかし、その平成仮面ライダーの歴代は、その功績にも関わらず使い捨てにされて忘れられようとしている。
 いや、《王墓に眠る歴代の王(平成仮面ライダー)》は脚光よりも安寧な眠りを望んでいるのかもしれない。すでに完結した物語に強引な続編を繋げられて、この先何十年も酷使される前朝廷の王たち(昭和仮面ライダー)のようにはなりたくない、と。


だが、これからも従来と同様に何十年先まで仮面ライダーを語り継いでいくためには、彼らの復活は不可欠だった。昭和仮面ライダーだけではなく、平成仮面ライダークウガ〜キバ)にも頼らなければならない時代が訪れたのである。そのためにはそれぞれ独立している物語をひとつにまとめなくてはならない。このような背景から、冒涜とそしられようとも破壊と再生の儀式『仮面ライダーディケイド』が催されたのだ。


この儀式がつつがなく執り行われていれば、平成仮面ライダーの流れはいったんピリオドが打たれ、仮面ライダーシリーズは次回作『仮面ライダーW』からテイストを一新*3しつつ、昭和仮面ライダーと平成仮面ライダーの意志を継ぐシリーズとして新たな歴史を歩むことができたはずだ。それは全仮面ライダー未来へ語り継いでいくための希望に他ならない。


ところが儀式半ばにして事態は急変することになる。
続きます。

*1:http://www.toei.co.jp/release/tv/1187815_963.html

*2:6月頃に立ち読みした雑誌インタビュー。出典忘れ。

*3:プロデューサー、メインライター共に仮面ライダー未経験人物が起用されているところに注目。http://connexus.jp/view?cls-1_id-32470

考察.1

DIEND

仮面ライダー史上、というよりコンテンツ史上でも語りぐさとなるであろう見事な【投げっぱなし最終回】を極めた『仮面ライダーディケイド』。この作品をテーマにして、久しぶりにがっつりと考察しようと思う。と、いうのもこの作品のグダグダさは予算やキャスト問題などのいわゆる大人の事情などではなく、もっと根源的な業によってもたらされたものと考えられるからだ。
「ここの筋立てがおかしい」とか「こうすればよかった」などの物語論的なアプローチではなく、作品を取り巻く環境に起きた事象を含めて『仮面ライダーディケイド』とは何なのかを整理する、いわば「メタ物語論」として成立すれば〆たものだと思っていただきたい。


結論から述べれば、『仮面ライダーディケイド』とは【罪と罰を体現した物語】だ。それは劇中において主人公が《九つの世界を破壊》する存在だったのに、《逆に仲間にした》ことで《全世界の崩壊》を阻止できなかった結末に現れている。だがそれは物語内の出来事であり、制作スタッフが強権発動して水戸黄門の印籠(デウス・エクス・マキナ)よろしくお為ごかしのハッピーエンドを用意すればいくらでも回避できた要素だ。だとすれば、あの【投げっぱなし最終回】には何らかの意味があることになる。第一話と最終話に描かれたあの《ライダー大戦》が『仮面ライダーディケイド』の本質だと解釈もできるし、第一話の大戦では存在していなかったディエンドがディケイドに銃口を突きつけて終幕となった最終回のラストシーンに物語のテーゼを見いだすことも可能だ。


そもそも主人公ディケイドのライバルであるディエンドとは何者なのか。その名"DIEND"が示すのは《死と完結(DIE+END)》である。ディケイドは平成仮面ライダー10年の節目に企画された《破壊》をもたらす者だった。本人の意志とは無関係に、接触した世界/物語を変質させて取り込んでしまう迷惑な存在だ。それに対してディエンドは、自分の意志で《完結》をもたらす、ディケイドの影である。どちらも厄介者に違いないのだが、ディケイドが台風や地震などのようにコントロールの利かない《災害》とするならば、ディエンドは常にターゲットを狙って力を行使する《死神》に喩えられよう。ではなぜ、『仮面ライダーディケイド』という作品にディエンドが存在するのかと言えば、暴風雨のごとき《災害》と化した主人公の物語を《完結》させる、すなわち死を与えて《救済》する役割が必要だったのだろう。テレビ最終回のラストシーンは展開こそ強引だがその象徴に他ならない。
(これらがキャラクターの心情などとは関係なく発動する《運命》とも呼ぶべき、物語上の機能だということに注意したい)


では、彼こそがディケイドの【罪に対する罰】を実践するものなのだろうか?前段で《救済》と書いたとおり、彼はディケイド最大の味方である。いわゆる英雄神話の多くが主人公の死によって完結を迎えていることを思い出してほしい。たとえディケイドの旅が無限に続いたとしても、ディエンドはその旅の終焉を約束しているのだ。決して罰などではない。


ならば『仮面ライダーディケイド』が体現する【罪と罰】とはなんなのか?



続きます。

視聴メモ最終回


うまく言えないので短くですが
あの最終回に納得してしまいました。
というか仮面ライダーディケイドの物語が完結しなかったことにややホッとしています。


初期企画だったであろう平成10作品だけだったら幕を下ろすべきだったんですけどね。
だからこそ次回作の仮面ライダーWは、いままでの平成シリーズとはテイストの異なる
企画になってるんだろうし。
でも劇場版含めてすべてのライダーの世界に橋を架けてしまった今となっては
ディケイドの物語が完結するときって、シリーズの歴史に幕を下ろすことを
意味するような気がするんですよ。


シリーズ全体をパッケージ化してしまった大罪ゆえに
己の世界/物語の破壊という罰とともに
未来永劫繰り返される仮面ライダーの物語を旅する咎人


と、なったんでないかなー。と。
それもまたひとつの結末だと思うのです。


欲を言えばきりがないけど、ね。

#19考察:ディエンドが響鬼を総括したワケ


仮面ライダーディケイドでは各エピソードのクライマックスで、その世界における仮面ライダーの存在理由をディケイド本人が一言で総括することが恒例となっていたのですが、なぜか響鬼編だけはライバルであるディエンドが総括しました。ディエンドとは、その名が示すとおり「完結」を背負ったキャラクターなのでしょう。だとすれば「終わる旅」というサブタイトルが示すように、九つの世界をめぐる旅が終わったことを象徴していたことは、間違いありません。


でも、それだけでしょうか?

完結した作品を破壊するのがディケイド。
未完の作品を終わらせるのがディエンド。

本来の仮面ライダー響鬼が、放送当時のプロデューサー変更にともなった騒動で「すでに破壊されていた」あるいは「まだ完結できていない」と考えたらどうでしょう。壊れているものはそれ以上壊せない。未完の作品を総括するためには完結させねばならない。そういう意味合いも込めて、響鬼の世界は、あえてディエンドが総括したように思えてなりません。


そう考えると今回の響鬼さん鎮魂セッションは、本編の斬鬼さん鎮魂セッションと同じ役割を果たしていたのかもしれませんなぁ。

斬鬼さんは三度死ぬ id:kka:20060101


で、さらに深読みすると、響鬼の世界がディケイドの巡歴で最後だったのも、こういう変速展開を効果的に見せることが目的で、さらにディエンドそのものの存在がこのためにもにょもにょ。


白倉Pは、ほんとに要所要所でいい仕事するなぁ。




そしていつの間にかキバ、響鬼、(電王)で少年仮面ライダー隊結成。