考察.3

祖父王の復活

仮面ライダーディケイド』が歴代の平成仮面ライダーをパッケージ化するために採った手法は画期的だった。従来ではいわゆる昭和仮面ライダーのように設定の矛盾に目をつむって「同じ世界の出来事」とする方法が一般的だった。しかしこれでは、先代の物語を次代の前座に貶める、あるいは敵の強さが無限にインフレーションする呪縛にとらわれるなどの問題が発生してしまう。そうした問題を回避するために『仮面ライダーディケイド』では、歴代のレプリカとなる物語を用意して、それを吸収・融合するようにしたのだ。なるほど、これなら歴代の物語を傷つけることなくパッケージ化できる。


とはいえ一部の宗教では神の偶像をつくることがタブーとされているように、歴代のレプリカを制作することもまた、歴代への冒涜と見なす向きもある。レプリカの制作に際して抽象化や改変を回避できない以上、それはオリジナルのアイデンティティーを破壊する行為にも等しい。考察2の冒頭に書いたプロデューサーたちが述べるネガティブな発言はここに由来しているわけだ。少なくとも僕は、従来のような設定を改ざんして強引に続編とするよりも、『仮面ライダーディケイド』の方法の方が歴代に対するリスペクトが強いと思っているのだが*1。いずれにせよ、それを自虐的に表現したのが「破壊者」という呼称である。レプリカを誰が制作するのかを問わなければ、「仮面ライダーディケイドの存在が、歴代のオリジナルの世界を破壊」することになるのだから。


さて、『仮面ライダーディケイド』では当初からメインライターを務めていた脚本家の会川昇氏が物語途中の十三話で降板している。その理由は発表されておらず、氏の「とても悲しいことがあって」というインタビューの発言から推察するしかない。それが何なのかはともかく、少なくとも《予定調和》が乱されたことは間違いない。また、もしかすると偶然かもしれないが時同じくして三十年以上続く仮面ライダー史上でも前代未聞な出来事が起きた。


平成仮面ライダー先々代の王、モモタロスの復活である。
通常なら墓に埋葬されて忘却を待っているはずだった『仮面ライダー電王』の新作劇場版の製作が決定したのだ。その理由がなんであれ、歴代のレプリカを用いて儀式を始める直前あるいはその直後に、オリジナルが墓の中からのっそり起き上がったのだからたまらない。オリジナルの目の前で、密かに用意したレプリカを儀式に用いるわけにもいかず、司祭が「いかがですか、モモタロス王も儀式に参加なさいませんか?」などと余計なことを口走ってしまったとしても、誰がそれを責められよう。


幸いなことに『仮面ライダー電王』は、物語としての続編を作りやすい終わり方をしていたため、儀式にそのまま加えても祟りが発生する危険性は少ないと思ったのかもしれない。かくして『仮面ライダーディケイド』の中で、レプリカではない本物の『仮面ライダー電王』の続編が描かれ、『劇場版 超・仮面ライダー電王&ディケイド NEOジェネレーションズ 鬼ヶ島の戦艦』も2009年GWに公開された。


この出来事を端緒にして『仮面ライダーディケイド』は混沌と化すことになる。
続きます。

*1:他にも『∀ガンダム』のように歴代すべてを黒歴史として包括する方法もあるのだが、それはシリーズ創始者のみ行使可能な禁断の大技である。石ノ森章太郎亡き今、仮面ライダーにそれが可能な人物は存在しない。