ガメラ考察. キミはトトに赤い石を届けたか?

はげしくネタバレしてます。「小さき勇者たち 〜ガメラ〜」をこれから観る予定の方は観賞後にご覧ください


06年04月29日に封切られ、現在公開中の劇場用作品「小さき勇者たち 〜ガメラ〜」。6年ぶりとなるガメラの最新作は、昭和の8作品、平成の3部作のどちらとも趣を異にする、ガメラ再誕を瑞々しく*1描いた「ジュヴナイルもの」でした。

■少年期に捧ぐ物語

ジュヴナイル juvenile
本来は“少年期”あるいは“少年期の”といったような意味の言葉ですが、そこから転じて“児童文学”を意味するようになりました。特に“児童文学”の中でも“ティーンエイジャーを対象とした文学”を指す言葉として使われています。そして、今では、文学に限らず映画やテレビといった映像作品に対しても“ジュヴナイルもの”というカテゴライズが行われることがよくあります。

生物彗星WoO*2」公式サイト 制作日記 第17回より

いわゆる「ジュヴナイルもの」とは、(諸説あると思いますが)「少年(または少女)が、大人へと成長するきっかけとなる出来事」に焦点をあてた作品を指し、その類型に次のようなプロットがあります。

欠落 なんらか(家族や能力)を欠落した主人公Aの境遇解説。
  邂逅 Aにとって未知の存在であるBとの出逢い。
交流 警戒が溶け、親しくなるAとB。
  異変 Bの出自に起因するトラブル。
  別離 (主に大人の介入によって)引き裂かれるAとBの関係。
違反 (主に大人の定めた)禁止事項を破り、危難の渦中にあるBのもとへ向かうA。
  救出 危難を乗り越えて、AがBを救出。
達成 逆転による勝利・発見など、物語の目的を達成。
  変質 (前向きに)変化するAとBの関係。
再会を示唆しながらそれぞれ旅立つパターンが多い。

ジュヴナイルものの傑作「天空の城ラピュタ」を思いだせば、分かりやすいかもしれませんね*3


さて、本題の「小さき勇者たち 〜ガメラ〜」は、母を亡くした少年「透」をA、ガメラの幼生「トト」をBとすることで、このジュヴナイルならではの王道プロットを誠実にトレースしていました。作品タイトルが「ガメラ 〜小さき勇者たち〜」ではなかったところからもわかるように、特撮ファンに向けた「いわゆる怪獣もの」ではなく、少年期の子供たちへ向けた「ジュヴナイルもの」として「小さき勇者たち 〜ガメラ〜」は世に送り出されたのです。

■命のバトン

大人たちによって搬送されたトトを追って、名古屋市街を襲撃した怪獣ジーダス*4。果敢にもトトは応戦するが、勝機は見えないまま。逆転するには、(隣のお姉ちゃん)麻衣の手元にある「赤い石 *5」をトトに届けるしかない。透は父の制止を聞かず麻衣を探すが、父に追いつかれてしまう。一方、心臓手術直後の麻衣も、避難したビルのウィンドウ越しにトトの苦戦を知るが、「赤い石」を届けようにも体の自由が利かない。その時、名も知らぬ少女が「赤い石」を受け取って名古屋市街へと走り出した。彼女は逃げまどう大人の群れに巻き込まれてしまうのだが、今度は別の少年がバトンタッチして「赤い石」を手に走り出す。そんなことが何度も繰り返され、ついに「赤い石」は透の手に渡った。子供たちの想いのアンカーとなって、透はトトのもとへ急ぐ。 

「ジュヴナイルもの」としての白眉は、トトを助けるために名もなき少年少女たちが災禍の市街を駆けるこのシークエンスでした。


ドラマの中に伏線なくあらわれた少年少女たち。彼らを登場させる必然性は、ストーリー上では皆無でした。それにも関わらず、その登場から活躍を感動的に描けたのは、本作が「子供の味方」を主役とする「ガメラ」シリーズだからに他なりません。透は子供たちの代表ですが、ガメラは決して透だけのものにあらず。だからこそ、トトがガメラへと成長するための戦いには、透だけではなく沢山の子供たちの応援が必要だったのです。


それでは、作品の世界観を根幹から崩壊させかねない、この危険なゲストたちは一体どこからやってきたのでしょうか。


■小さき勇者たちへ

新しいガメラの映画を作る時に、この手あかをちゃんと拭いて新品以上にきれいにしてから君たちの前に出そうと。最初にそれを決めました。
『小さき勇者たち 〜ガメラ〜』に登場するトトは君たちのガメラです。

田崎竜太(監督)/劇場パンフレットより抜粋

ひとり目の少女が麻衣から「赤い石」を受け取るビルの壁は、巨大なガラス張りとなっていて、まるでトトとジーダスの戦いを映す劇場スクリーンのようでした。そう、あのシーンが作品世界を僕たちの座る劇場まで拡大させ、すべての観客をも取り込んだのです。そして、その劇場の中から「届けたい トトへ!」と共感した子供が「赤い石」を受け取って走り出しました。何人も何人も……。


さらに、ジーダスに逆転勝利した後に疲労で倒れたトトを捕獲しようと自衛隊が動き出した時、スクリーンには両手を広げた少年少女たちの背中が映されました。それは、彼らの後ろで一緒にとおせんぼする現実の子供たちの目線でした*6


あの少年少女たちの正体は、トトと透の物語を見守っていた現実の子供たちなのです*7


作品タイトルにある「小さき勇者たち 」とは、劇場に足を運んだすべての少年少女を含んでいるのでしょう。なぜなら透や麻衣に感情移入した子供たちは皆、トトの無事を願い、トトを救うリレーに参加したのですから。


残念ながら、こんなことを考えながら映画を鑑賞していた僕に、「赤い石」を届ける役割は回ってきませんでした*8。でも、それは大した問題ではありません。もし劇場にいた子供たちの中に、ひとりでもあのシーンで「届けたい トトへ!」と祈った勇者がいたのなら、「無垢のガメラをプレゼント」という田崎竜太監督の想いは伝わったことになるのですから。


どっとはらい


このエントリーの参考となるブログさん
らりー見聞記 物語後半でガメラのエネルギー源である赤い石を子供たちがリレーで運ぶ場面があり、この少年少女たちも含めて「小さき勇者たち」なんだな、と感じた。子供たちが届ける赤い石が無ければガメラは自爆をしていたのかも知れない。ガメラが少年達を護ったように、少年達もガメラを護ったのだろう。
おたっきーの映画日記 そして何よりも、この映画は5歳、4歳の息子と初めて映画館で見た記念すべき怪獣映画第1作となった。「僕、ヒーロー物の映画監督になる」といい始めた長男が「面白かった!感動した!」という言葉が、この作品が魅力的に仕上がっている証だろう。
でじたるあーかいぶ迷走ろぐ 今回ジュブナイルものとして描いたのは、いわば子どもが大人へなっていくとき、乗り越えなければならないもの、決別しなければならないもの、それらの比喩としてガメラという器を借りて描かれたのが今作であるが。それは子どもには今(もしくはこれから)立ち向かっていかなければならないもの、大人にとっては経験してきたものであってすべての世代に理解できるものであるはず。

*1:音楽を担当された上野洋子さんは、透明感のある歌声(劇中のコーラスは本人)と作曲が定評のアーティストです。主人公の名前「透」や、伊勢志摩の景色と合わせて、「透明感」を丁寧に紡ぎ出した作品でした。

*2:円谷プロ制作で放映中の、ハイビジョン特撮ドラマ。「小さき勇者たち 〜ガメラ〜」と同じく、ティーンエイジャーと未知の生物の交流を描くジュブナイル。主人公が少年ではなく少女という点で異なる。...いずれ考察対象として視聴中。

*3:余談ですが、チェーンメールで話題になった「ドラえもん最終回」も、この王道プロットに従っています。

*4:人を食べるという残酷な行為を、目を背けず残酷に描いたところに本作の誠実さを感じました。この凶暴な怪獣が透とトト、そして子供たちの敵なのです。

*5:この「赤い石」に不思議な生命力が宿っていることは、麻衣の心臓手術の成功によって示唆されていましたが、それ以上にこのリレーで子供たちの想いが蓄積されたからこそ、トトは自爆せずに勝利できたのでしょう。

*6:通せんぼのシーンの最後で透がトトを振り返って見上げましたが、その時、透と一緒に振り返りたくなったのは、僕だけでしょうか。それくらい観客の視線を描写していました。

*7:「トト」と聞いてすぐに、あの亀型怪獣だと理解したのが、その証左と言えるでしょう

*8:大人には、透と子供たちを見守り、助けるという役割がちゃんドラマの中に用意されていました。