考察 父の愛が息子の魂を曇らせる

※はげしくネタバレしてます。「牙狼〈GARO〉」全25話を未鑑賞でネタバレを好まれない方は、観賞後にご覧ください。


ハイパー・ミッドナイトアクションドラマ「牙狼〈GARO〉」。特撮界の鬼才、雨宮慶太氏が原作・総監督を務めたこの作品は、深夜番組ならではのエロス&ホラーテイストと迫真のワイヤーアクション、TVの常識を覆すVFXで話題となりました。革新的な映像の原動力となったのは、ブランドに頼らない新しいヒーローを創出しようとする、気鋭のクリエイターたちの情熱だったことは言うまでもありません。


映像を支える物語には、1話完結を原則としながらも、全25話を見据えた骨太のプロット*1が用意されていました。主要キャラクターは、主人公の黄金騎士ガロこと「冴島鋼牙(さえじまこうが)」、死の呪いに蝕まれるヒロイン「御月カオル(みづきかおる)」、ガロを仇として復讐を誓う銀牙騎士ゼロこと「涼邑零(すずむられい)」の3人。鋼牙はカオルと愛情を、死闘を経た零とは友情を育み、やがて2人の協力を得て、父の仇でありすべての陰謀を企てた暗黒騎士キバを討ち果たすのです。

■喪失と不在

鋼牙、カオル、零の3人は、それぞれ両親と死別して肉親のない境遇にありました。興味深いのは、彼らにとって〈父〉は「喪失」なのに対して、〈母〉は「不在」ということでしょう。


彼らの〈父〉には明確な設定があり、自分の子に伝承すべき技巧や意志がありました。喪失した〈父〉に対するコンプレックスの克服が、各々のドラマの縦軸となったのです。

鋼牙 幼少時代に〈父〉を失った鋼牙は、亡父の跡を継いで黄金騎士ガロ(魔戒騎士の最高位)となることを決意する。それは「魔戒騎士の血は、この俺で途絶えていい。親父の復讐を遂げられるのなら!*2」という、屈辱の死を遂げた〈父〉の汚名を雪ぐためだったが、数々の試練とカオルとの交流を通じて「護りし者(魔戒騎士の別称)」としての誇りに目覚めていく。そして〈父〉の仇、暗黒騎士キバとの決戦では「俺はひとりで戦ってきたのでない! かつてガロの称号を得たすべての英霊と共に戦ってきたのだ*3」と、黄金騎士ガロの当代として堂々たる勝利を収める。
カオル 病と闘う〈母〉をかえりみず作画に没頭し続けた〈父〉を恨みながらも、〈父〉と同じく画家を志すカオル。とある幼稚園に残されていた〈父〉の描いた壁画「女神」を修復することになった彼女は、その作業を通じて〈父〉の〈母〉への想いを知り、溜飲をさげる。やがて最大の敵メシアにガロ(鋼牙)が苦闘するさなか、カオルは鋼牙のために魂を込めて画を描き、ガロに燦然と輝く翼を与え勝利に導く。そして物語のラスト、意図的に最終ページを白紙にされた〈父〉の絵本「黒い炎と黄金の風」に、カオルは彼女自身が思い描く結末を与える。
魔戒騎士でありながら、もともとは孤児だったため魔戒騎士の系譜に存在を記されない零。〈義父〉と愛しい恋人と共に過ごした幸福な日々は、突然終わりを告げる。最愛の2人を惨殺した謎の騎士への復讐を誓った零は、その正体を鋼牙と断定して襲いかかるが、何度か刃を合わせた後、それが誤解だったと知る。鋼牙に謝罪した零は、共通の仇を倒すために共闘を申し出、復讐を果たす。(功績を認められた零は、正式に魔戒騎士の系譜に名を連ねることになったとのこと*4)。

〈父〉に比べ、3人の〈母〉はとても希薄な存在でした。鋼牙の〈母〉は死別したことを示唆するにとどまり、回想シーンなどで登場するカオルの〈母〉は形骸にすぎず、孤児だった零には〈母〉そのものがありません*5。しかしそれは〈母〉の「欠落」を意味するものではないでしょう。カオルの〈父〉が、愛娘を産んだ妻を女神として壁画に残していたように、彼らの〈母〉は神性を伴った存在として物語外に位置していたのです。

■邪にして美しき者

魔戒騎士の敵、魔獣ホラー。陰我(作中における情欲や情念、煩悩などの総称)に駆られた人の魂を喰らい、とり憑いた肉体を醜悪なバケモノへと変化させるホラーは、陰我の権化と呼ぶべき存在でした。しかしその一方で、乳房をあらわにした女性型のホラーも少なくありません。特にホラーの始祖とされる最大の敵「メシア」は、完全な女性の貌(かたち)をしていました。これは女体が、美しさゆえにホラーと同じ陰我の象徴であることを意味します*6


さて、鋼牙には幼なじみがいました。名前は邪美(じゃび*7)。彼女は、再会した鋼牙に淡い恋心を抱くものの、彼の目の前でホラーに抹殺される運命にありました。結果的に、邪美の悲劇は鋼牙が憤怒と憎悪を爆発させる引き金となり、彼を窮地に陥れます。陰我に囚われた鋼牙は、黄金騎士ガロの鎧の暴走によって、その身をホラーのごとき魔獣*8の姿へと変化させてしまったのです。


つまり〈女性〉は、(本人の意志とは関係なく)〈男性〉を陰我に惑わせる魔性の存在として描かれているのです。これは、ヒロインであるカオルも例外ではありません。とあるホラーに暴かれた彼女の本性は下品そのものでしたし、「メシア」に憑かれたとはいえホラーとして黄金騎士ガロ(鋼牙)に刃を向けたのですから。


しかし、魔性を伴った〈女性〉として描かれながらも、カオルは物語のクライマックスで神性を帯びた存在となり、黄金騎士ガロに翼を与え勝利に導きました。カオルの性質を変化させたのは、彼女に憑いた「メシア」を祓った鋼牙の愛。〈女性〉は〈男性〉に愛され、(精神的に)夫婦となることで、その性質を魔性から神性へと変化させるのです。

牙狼〈GARO〉が描く人生観

両親および男女に与えられた役割から「牙狼〈GARO〉」の世界が、ある人生観に基づいて構築されていることが分かります。その中心にあるのは鋼牙、すなわち〈男児〉です。


男児〉は〈父〉の背中を追って成長する。〈母〉の愛に溺れてはならない。成長とは俗世の誘惑との戦いだ。切磋琢磨できる〈好敵手〉を得よ。数多の女性から最愛の〈女性〉を見つけ、命をかけて愛せ。そして、強くなれ。と*9

じゃあ、最初からある程度は長丁場を覚悟していた『牙狼〈GARO〉』の場合、どうやってモチベーションを保ったかというと、主人公の名前なんです。『鋼牙』っていうのは、ウチの息子と同じ名前なんですよ。『巧画』といって、字は違うんですけどね。さすがに、自分の息子の名前を使ったら、どんなに長くかかっても、実際に作るときに手は抜かないし、飽きたりしないだろうと。それを拠り所にしていたんですよ。

雨宮慶太ロングインタビュー/「牙狼〈GARO〉魔戒之書」111ページより

牙狼〈GARO〉」とは、〈父〉が〈息子〉に捧げる「愛情の形」であり、〈父〉からの自立を描いた寓話(絵本のような物語)なのです*10。〈息子〉の人生の将来を〈父〉が決めるべきではない。そんな思いが、本編を象徴した絵本「黒い炎と黄金の風」のラストページを空白にしていたのでしょう。

■〈父〉のカケラ

〈父〉を亡くした〈息子〉の成長を描いた「牙狼〈GARO〉」。しかしながら鋼牙は、肉親を失ったとはいえ恵まれた環境で育ちました。魔戒騎士としては大河のパートナーだった魔導輪ザルバ*11を継承し、人間としては衣食住の保証と同時に身の回りの世話をする執事ゴンザが残されていたのですから。また物語の中では、ザルバ、ゴンザの他にも数多くのキャラクターが〈父〉の代弁者*12として登場し、鋼牙を導きました。これは〈父〉の、〈息子〉に苦労をかけたくない、辛い思いをさせたくないという想いの顕れなのでしょう。


そうした〈父〉の愛情は、物語内にも影を落とします。

須川「人間は根源的に他人を殺そうと欲している。そのために文明の利器を進化させ、相手を殺傷してきた。人類の祖先が道具を手にした瞬間、ホラーはこの世に生を受けた*13。すなわち人間とは、ホラーそのものなのだ。中でも最も性質の悪い種族が、君たち魔戒騎士だ」
須川「キミは人を護るという名目で正義を振りかざし、罪なき人々を虐殺した」
鋼牙 「違う!」
須川「その黄金の鎧こそ、魔戒騎士の矛盾を覆い隠すまやかしに過ぎない」
鋼牙 「それは貴様の理屈だ! この黄金の鎧には一点の曇りもない」

第22話「魔弾」より

須川は、ホラー化した娘を黄金騎士ガロ(鋼牙)に斬られたのを恨み、人間でありながらホラーの力を用いて鋼牙への復讐を画策した男です。彼は〈父〉の立場から、魔戒騎士が内包する矛盾を鋼牙に突きつけたのです。この会話の後、ホラーとなることを選択した神須川はあまりの苦痛に死を欲し「キミはこの苦しみから娘を救ってくれたのか」と溜飲をさげ、魔戒騎士という存在にエクスキューズを与えます*14


しかし、これは鋼牙の罪を弁明するものではありません。「牙狼〈GARO〉」の物語中において、誰も鋼牙の罪を問い詰めないのです。

■鋼牙の原罪

カオルを蝕んだ死の呪いとは、「ホラーの返り血を浴びた者は、他のホラーの標的にされるだけではなく、100日後に地獄の苦しみ*15と共に死ぬ」というものでした。カオルと出会った鋼牙は、真意はどうあれ彼女をホラーをおびき出す餌として利用し、その罪と罰が2人のドラマを牽引しました。


そもそも誰がカオルに返り血を浴びせたのか。ホラーが返り血をまき散らした原因は、他ならない鋼牙の一太刀。つまり、カオルに呪いをかけたのは鋼牙だったにも関わらず、すべてのキャラクターがその罪から目を背けていたのです。第19話「水槽」では、連続殺人を犯した人間を鋼牙が殴るシーンがありました。その犠牲者のひとりは鋼牙が誘拐現場で犯人を見逃したために落命したにも関わらず、彼は自身の過失と向き合おうともしません*16


もうひとりの魔戒騎士、零も同様です。家族を奪われて復讐を誓う彼ですが、事件の夜、彼はすでに魔戒騎士であり、同じ屋根の下で寝ていたのです。侵入者を撃退できた可能性を無視し、自分の不明を恥じることなく、彼は一方的に犯人を呪い、物語の最後まで恋人に「護ってやれなくてゴメン」と謝罪することはありませんでした*17


「その黄金の鎧こそ、魔戒騎士の矛盾を覆い隠すまやかしに過ぎない」


須川が放ったこのセリフを、「牙狼〈GARO〉」は払拭できません。その原因もまた、「〈息子〉は強い、罪を背負って欲しくない」と願う〈父〉の愛なのです。

■最後の陰我

雨宮:ぼんやりとですが、いくつかやりたいと思っている要素はありますね。とりあえず、テレビシリーズの最終回までの流れの中ではやれることはやったという思いはありますし、やり残したよりはやりきった感覚の方が大きいですね。

引用元:MAKING INTERVIEW 001/「牙狼〈GARO〉公式ビジュアルブック」61ページより

鋼牙、カオル、零の3人が、それぞれ自分の道を歩き始めるところで物語の幕は閉じました。その時画面に映し出されたのは「完 暗黒魔戒騎士篇」という文字。25話かけて描かれた鋼牙の物語は、未来は白紙ではなく別な物語が用意されていることを示唆して幕を閉じました。*18

前述の通り「牙狼〈GARO〉」が〈父〉から自立する〈息子〉の物語である以上、彼らの未来は絵本「黒い炎と黄金の風」同様、白紙でなければなりません。この矛盾は、喩えるなら絵本「黒い炎と黄金の風」の白紙のラストに、「つづく」とだけ書かれているようなもの。巣立ちの時を迎えた〈息子〉を手放させなかったのは、〈息子〉を導いた〈父〉の愛情にひそむ「支配欲」に他なりません。


牙狼〈GARO〉」は、内に芽生えた陰我を断ち斬れなかったのです。


比類ない情熱と愛情によって、新たなヒーローの創出に成功した「牙狼〈GARO〉」。僕自身、全25話をリアルタイムで視聴し、最後まで楽しみました。魂のこもった佳い作品だったと思います。だからこそ、この物語が内包するテーマに敗れてしまったことが、残念でなりません。

どっとはらい

*1:起承転結をそれぞれ6話ずつに区切った素晴らしいシリーズ構成でした。

*2:第7話「銀牙」より

*3:第25話「英霊」より

*4:牙狼〈GARO〉魔戒之書」64ページに詳細が記載。「零が魔戒騎士の系譜に加わったことは物語上、重要な事実であるので、敢えてここに記しておきたい」とあるとおり、「無(ゼロ)」から「有」の状態に転じることで零の物語は幕を降ろすのです。

*5:第14話「悪夢」で、養父と恋人の墓の他、もうひとつ墓標が映されました。おそらくそれが、義母の墓なのでしょう。

*6:「東の番犬所」にいた少女3人の正体がホラー「ガルム」だったように、年齢や容姿に関係なく女性は皆ホラーと同質なのです

*7:牙狼〈GARO〉公式ビジュアルブック」63ページによれば、当初彼女の登場予定はなく、プロデューサーの「女の魔戒騎士も出して欲しい」という要望に対して、女性騎士は雨宮監督としてあり得ないため苦肉の策で魔戒法師となったとのこと。このことを踏まえると、彼女が「鋼牙に近づくすべての女性(カオル以外)」という性質を持たされて「邪美」と命名されたことが伺えます。

*8:設定では「心滅獣身」という状態だそうです。

*9:〈父〉を欠落し〈母〉の愛に溺れた〈男児〉の運命は、ホラー「ガルム」の子「コダマ」に託されました。彼は「言葉を失った者」、つまり意志のない〈母〉の傀儡として描かれたのです

*10:友情出演した京本政樹さんの息子の名は「大我(たいが)」という名前。もし、これが鋼牙の〈父〉の名と関連するのなら、京本氏はドラマ中とはいえ〈息子〉に手をかける役割を担ったことになり、作品にかける意気込みを感じることができます

*11:物語ラストでザルバから記憶を奪ったのは、自立した鋼牙が幸せだった父との記憶を必要としなくなることを意味しているのかもしれません。

*12:黄金騎士の影(第9話「試練」)、魔法師阿門(第16話「赤酒」)、神須川祐樹(第21話「j魔弾」)、観月由児(第25話「英霊」)などが〈父〉の代弁者となりました。皆、鋼牙が極限まで苦悩・苦戦する前に、助言や赦しを与えていたのが印象的です。

*13:道具とホラーの出自は公式設定にはないため、ガンマニアである神須川の独自解釈としてのセリフでしょう。人間とホラーが同一起源にあるところは違いありませんが。

*14:本作でもっとも神聖な存在である〈父〉をそのままホラーにさせるという展開は、「牙狼〈GARO〉」を象徴する名シーンと言えるのではないでしょうか。

*15:イムリミットまで迫ったカオルは高熱にうなされました。しかしながらホラーとなった神須川の苦しみと比べれば、比較的緩かったようです。第10話「人形」で描かれたカオルの暗黒面が増長するという展開を期待していたので個人的に残念です。

*16:鋼牙の過失のほとんどは「魔戒騎士の掟」という無形の免罪符によって赦されています。

*17:零の恋人静香は、暗黒騎士キバに胸を貫かれて命を落としました。もし、わざとホラーの返り血を浴びせ100日の苦しみの後に死亡したという設定になっていれば、零の苦悩やカオルへの態度、鋼牙への怒り、そしてカオルを救った鋼牙へのリスペクトなどが強調されていたでしょう。ここまで骨太のプロットを仕上げたスタッフが、このロジックに気づかなかったとは思えませんので、なんらかの理由があったのだとは思います。

*18:06/05/22現在「牙狼〈GARO〉」のテレビスペシャルが制作されるという噂があるものの、最終回制作当時、続編については未定だったとのこと

テニスの王子様 感想

ウルトラマンネクサス」の最終回を手がけたアベユーイチ監督の作品ということで、「テニスの王子様(実写版)」を観てまいりました。


原作マンガは、個性的なキャラクターが多数登場し、熱狂的な女性ファンに支持されている作品ということくらいしか知りません。人気マンガの映画化であるため、ストーリーおよびメッセージ性に対して考察する余地はありませんので、個人的な感想を申し上げます。


映画としてオモシロイ。


これは一部のファンのものにしておくのは惜しい出来ですよ。とにかくエンターテインメントに徹しながら、おバカ映画としての甘えがない。彼らが全員中学生という設定も含めて、ツッコミどころはちゃんと押さえつつもシラケることなく世界が構築されているのは、丁寧な描写を積み重ねた成果でしょう。ストーリーのテンポもいいし、おざなりにされるキャラクターもいない。


少林サッカーに代表される「超人スポーツもの」として、楽しみました。


ウルトラマンネクサス」の最終回もそうでしたが、膨大な要素の中から見せるべきワンシーンを決め、それを作品の軸として要素の取捨選択および全体を構築してみせるアベユーイチ監督のバランス感覚は見事というほかありません。

次回作も楽しみです。

ガメラ考察. キミはトトに赤い石を届けたか?

はげしくネタバレしてます。「小さき勇者たち 〜ガメラ〜」をこれから観る予定の方は観賞後にご覧ください


06年04月29日に封切られ、現在公開中の劇場用作品「小さき勇者たち 〜ガメラ〜」。6年ぶりとなるガメラの最新作は、昭和の8作品、平成の3部作のどちらとも趣を異にする、ガメラ再誕を瑞々しく*1描いた「ジュヴナイルもの」でした。

■少年期に捧ぐ物語

ジュヴナイル juvenile
本来は“少年期”あるいは“少年期の”といったような意味の言葉ですが、そこから転じて“児童文学”を意味するようになりました。特に“児童文学”の中でも“ティーンエイジャーを対象とした文学”を指す言葉として使われています。そして、今では、文学に限らず映画やテレビといった映像作品に対しても“ジュヴナイルもの”というカテゴライズが行われることがよくあります。

生物彗星WoO*2」公式サイト 制作日記 第17回より

いわゆる「ジュヴナイルもの」とは、(諸説あると思いますが)「少年(または少女)が、大人へと成長するきっかけとなる出来事」に焦点をあてた作品を指し、その類型に次のようなプロットがあります。

欠落 なんらか(家族や能力)を欠落した主人公Aの境遇解説。
  邂逅 Aにとって未知の存在であるBとの出逢い。
交流 警戒が溶け、親しくなるAとB。
  異変 Bの出自に起因するトラブル。
  別離 (主に大人の介入によって)引き裂かれるAとBの関係。
違反 (主に大人の定めた)禁止事項を破り、危難の渦中にあるBのもとへ向かうA。
  救出 危難を乗り越えて、AがBを救出。
達成 逆転による勝利・発見など、物語の目的を達成。
  変質 (前向きに)変化するAとBの関係。
再会を示唆しながらそれぞれ旅立つパターンが多い。

ジュヴナイルものの傑作「天空の城ラピュタ」を思いだせば、分かりやすいかもしれませんね*3


さて、本題の「小さき勇者たち 〜ガメラ〜」は、母を亡くした少年「透」をA、ガメラの幼生「トト」をBとすることで、このジュヴナイルならではの王道プロットを誠実にトレースしていました。作品タイトルが「ガメラ 〜小さき勇者たち〜」ではなかったところからもわかるように、特撮ファンに向けた「いわゆる怪獣もの」ではなく、少年期の子供たちへ向けた「ジュヴナイルもの」として「小さき勇者たち 〜ガメラ〜」は世に送り出されたのです。

■命のバトン

大人たちによって搬送されたトトを追って、名古屋市街を襲撃した怪獣ジーダス*4。果敢にもトトは応戦するが、勝機は見えないまま。逆転するには、(隣のお姉ちゃん)麻衣の手元にある「赤い石 *5」をトトに届けるしかない。透は父の制止を聞かず麻衣を探すが、父に追いつかれてしまう。一方、心臓手術直後の麻衣も、避難したビルのウィンドウ越しにトトの苦戦を知るが、「赤い石」を届けようにも体の自由が利かない。その時、名も知らぬ少女が「赤い石」を受け取って名古屋市街へと走り出した。彼女は逃げまどう大人の群れに巻き込まれてしまうのだが、今度は別の少年がバトンタッチして「赤い石」を手に走り出す。そんなことが何度も繰り返され、ついに「赤い石」は透の手に渡った。子供たちの想いのアンカーとなって、透はトトのもとへ急ぐ。 

「ジュヴナイルもの」としての白眉は、トトを助けるために名もなき少年少女たちが災禍の市街を駆けるこのシークエンスでした。


ドラマの中に伏線なくあらわれた少年少女たち。彼らを登場させる必然性は、ストーリー上では皆無でした。それにも関わらず、その登場から活躍を感動的に描けたのは、本作が「子供の味方」を主役とする「ガメラ」シリーズだからに他なりません。透は子供たちの代表ですが、ガメラは決して透だけのものにあらず。だからこそ、トトがガメラへと成長するための戦いには、透だけではなく沢山の子供たちの応援が必要だったのです。


それでは、作品の世界観を根幹から崩壊させかねない、この危険なゲストたちは一体どこからやってきたのでしょうか。


■小さき勇者たちへ

新しいガメラの映画を作る時に、この手あかをちゃんと拭いて新品以上にきれいにしてから君たちの前に出そうと。最初にそれを決めました。
『小さき勇者たち 〜ガメラ〜』に登場するトトは君たちのガメラです。

田崎竜太(監督)/劇場パンフレットより抜粋

ひとり目の少女が麻衣から「赤い石」を受け取るビルの壁は、巨大なガラス張りとなっていて、まるでトトとジーダスの戦いを映す劇場スクリーンのようでした。そう、あのシーンが作品世界を僕たちの座る劇場まで拡大させ、すべての観客をも取り込んだのです。そして、その劇場の中から「届けたい トトへ!」と共感した子供が「赤い石」を受け取って走り出しました。何人も何人も……。


さらに、ジーダスに逆転勝利した後に疲労で倒れたトトを捕獲しようと自衛隊が動き出した時、スクリーンには両手を広げた少年少女たちの背中が映されました。それは、彼らの後ろで一緒にとおせんぼする現実の子供たちの目線でした*6


あの少年少女たちの正体は、トトと透の物語を見守っていた現実の子供たちなのです*7


作品タイトルにある「小さき勇者たち 」とは、劇場に足を運んだすべての少年少女を含んでいるのでしょう。なぜなら透や麻衣に感情移入した子供たちは皆、トトの無事を願い、トトを救うリレーに参加したのですから。


残念ながら、こんなことを考えながら映画を鑑賞していた僕に、「赤い石」を届ける役割は回ってきませんでした*8。でも、それは大した問題ではありません。もし劇場にいた子供たちの中に、ひとりでもあのシーンで「届けたい トトへ!」と祈った勇者がいたのなら、「無垢のガメラをプレゼント」という田崎竜太監督の想いは伝わったことになるのですから。


どっとはらい


このエントリーの参考となるブログさん
らりー見聞記 物語後半でガメラのエネルギー源である赤い石を子供たちがリレーで運ぶ場面があり、この少年少女たちも含めて「小さき勇者たち」なんだな、と感じた。子供たちが届ける赤い石が無ければガメラは自爆をしていたのかも知れない。ガメラが少年達を護ったように、少年達もガメラを護ったのだろう。
おたっきーの映画日記 そして何よりも、この映画は5歳、4歳の息子と初めて映画館で見た記念すべき怪獣映画第1作となった。「僕、ヒーロー物の映画監督になる」といい始めた長男が「面白かった!感動した!」という言葉が、この作品が魅力的に仕上がっている証だろう。
でじたるあーかいぶ迷走ろぐ 今回ジュブナイルものとして描いたのは、いわば子どもが大人へなっていくとき、乗り越えなければならないもの、決別しなければならないもの、それらの比喩としてガメラという器を借りて描かれたのが今作であるが。それは子どもには今(もしくはこれから)立ち向かっていかなければならないもの、大人にとっては経験してきたものであってすべての世代に理解できるものであるはず。

*1:音楽を担当された上野洋子さんは、透明感のある歌声(劇中のコーラスは本人)と作曲が定評のアーティストです。主人公の名前「透」や、伊勢志摩の景色と合わせて、「透明感」を丁寧に紡ぎ出した作品でした。

*2:円谷プロ制作で放映中の、ハイビジョン特撮ドラマ。「小さき勇者たち 〜ガメラ〜」と同じく、ティーンエイジャーと未知の生物の交流を描くジュブナイル。主人公が少年ではなく少女という点で異なる。...いずれ考察対象として視聴中。

*3:余談ですが、チェーンメールで話題になった「ドラえもん最終回」も、この王道プロットに従っています。

*4:人を食べるという残酷な行為を、目を背けず残酷に描いたところに本作の誠実さを感じました。この凶暴な怪獣が透とトト、そして子供たちの敵なのです。

*5:この「赤い石」に不思議な生命力が宿っていることは、麻衣の心臓手術の成功によって示唆されていましたが、それ以上にこのリレーで子供たちの想いが蓄積されたからこそ、トトは自爆せずに勝利できたのでしょう。

*6:通せんぼのシーンの最後で透がトトを振り返って見上げましたが、その時、透と一緒に振り返りたくなったのは、僕だけでしょうか。それくらい観客の視線を描写していました。

*7:「トト」と聞いてすぐに、あの亀型怪獣だと理解したのが、その証左と言えるでしょう

*8:大人には、透と子供たちを見守り、助けるという役割がちゃんドラマの中に用意されていました。

考察.3 サコミズ隊長と5人の戦士

第4話「傷だらけの絆(06年4月29日放映)」で、「メガネ」および「マケット怪獣*1」という属性によって、アマガイコノミ隊員が「ウルトラセブン」的であることが示されました。もしかすると、CREW GUYSのメンバー(ミライを除く)はそれぞれウルトラ兄弟のメタファーとなっているのかもしれません。

ウルトラ兄弟に似た新生CREW GUYSの面々

サコミズシンゴ ウルトラマンゾフィー 戦士たちを率いる隊長。
アイハラリュウ 初代ウルトラマン CREW GUYSの古参メンバー、ウルトラマンの精神を強く宿す人物*2
アマガイコノミ ウルトラセブン 「メガネ」を着用し「マケット怪獣」を召喚する。
カザママリナ ウルトラマンジャック 嘱望されるロードレーサー*3
イカルガジョージ ウルトラマンエース? (該当不可のため消去法で*4。)
クゼテッペイ ウルトラマンタロウ ザコン*5

約1名を除き、意外とすんなり割り当てられることができました。このメタファーの真偽や意味を現段階で問うのは早計*6ですが、思考実験的に推測できる可能性を探ってみましょう。

  • 可能性1. サコミズ隊長の正体

ウルトラマンメビウスでは「劇中にゾフィーの人間体が登場する」と放映前から謳われていますが、その正体がサコミズ隊長だとするなら、強烈な個性の集団でも容易に統率できる優秀な隊長であることをすでに印象づけているのかもしれません。

06年9月上映予定の劇場版では、ウルトラ6兄弟(ゾフィーからタロウまで)が登場するそうです。その劇中でCREW GUYSメンバーが、それぞれ対応するウルトラマンと何らかの交流するのかもしれません、


実際どうなんでしょうね。偶然の一致で棄却するにはもったいない*7ので、この考察の続きは、今後の展開次第と言うことで。


つづく*8

*1:ウルトラセブンに登場した「カプセル怪獣」と同義。

*2:考察.1 リュウは光の国へゆけるのか?(id:kka:20060423)を参照ください。

*3:帰ってきたウルトラマン」の主人公郷秀樹は元レーサーでした。

*4:今後「ウルトラマンエース」的な要素が提示されるのかも。

*5:第1話からテッペイのマザコンがタロウを意識してるのかもと、気になってたんです。

*6:我ながら飛躍した考察だと自覚してます。

*7:制作陣が仕掛けたミスディレクションに引っかかってる気もしますが、それはそれで一興です。

*8:次の考察4が、これの続きとは限りません。あしからず。

考察.2 昭和と平成のクロスオーバー

 *12:ちなみにこの「メビウス」というタイトル。個人的には「昭和ウルトラマンと平成ウルトラマンを表裏に見立てて、それを融合する作品」という意味が込められてるのではないかと思ってます。

「考察.1 リュウは光の国へゆけるのか?(id:kka:20060423)」で上記のように書きましたが、「昭和ウルトラマンと平成ウルトラマンを融合」というコンセプトに思い当たるところがあったので資料を調べてみました。

■交差・連鎖・無限環

◆テーマ
「絆」をもって未来を切り開く
◆コンセプト
「やさしい心と勇ましい行為」という理想のヒーローとしての願望を体現する光の巨人『M78星雲のウルトラマン』たちの持つ魅力と、人間自身が光を得たことでその思いや行動に等身大の共感が得られた、近年の作品のいわゆる『人間ウルトラマン』たちの主人公が持つ魅力。
その双方の魅力をクロスオーバーさせる作品。

(「ウルトラマンX(クロス)」(仮題)企画書より)*1

これは「ウルトラマンコスモス」の放映終了当時(2002年11月頃)、その次回作用に作成された企画書の抜粋です。その後「ウルトラマンX(クロス)(仮題)」は、放映のための諸条件からコンセプトに「ハード路線」「連続ストーリー」などの要素が追加され*2ウルトラマンネクサス」として2004年10月にスタートしました。


ウルトラマンX(クロス)(仮題)」と「ウルトラマンメビウス」のコンセプトの共通性は言わずもがなでしょう。「ウルトラマンメビウス」は、「ウルトラマンネクサス」の原点「ウルトラマンX(クロス)(仮題)」からスタートしているのです*3。そして更に踏み込み「〜の魅力」どころか「M-78星雲のウルトラマン」と「ウルトラマンの光を得た人間*4」そのものを登場させてクロスオーバーさせてきた点に、企画のクローンに終わらない「ウルトラマンメビウス」という作品の「志」を強く感じる次第です。


どっとはらい

このエントリーの参考となるブログさん
何もない日常-LIVE- ウルトラマンメビウス』初見の印象。
ネクサスからの『絆』が受け継がれた――と感じた。 それは、個人的解釈における、Aからの系譜。
特撮ヒーロー作戦! ぼくらが変えてく未来♪ 絆はとぎれはしない♪
このところの歌詞、なんかスタッフからのメッセージのような気がしませんか? 中途に終わってしまったネクサスの志を受けて、再び動き出したスタッフ。その気持ちが込められた歌詞のような気がして、ちょっとウルウルっとしてしまったんですが…(T T)

*1:ウルトラマンネクサスNEXUSEED (ファンタスティックコレクション)(朝日ソノラマ刊)より抜粋(23ページ)

*2:ウルトラマンのような大きなプロジェクトでは、企画初期から実現の過程でコンセプトなどの変更が加えられるのは(おそらく)日常茶飯事でしょう。

*3:このあたりは渋谷プロデューサー(円谷プロ)、岡崎プロデューサー(CBC)のインタビューが楽しみです。ちなみに岡崎プロデューサーは、ネクサス企画当初からM-78星雲ウルトラマンの登場を熱望していたとか。

*4:考察.1 リュウは光の国へゆけるのか?(id:hatenadiary:20060423)を参照ください。

考察.1 リュウは光の国へゆけるのか?

現在、土曜日17:30〜放映中(関東地区)のウルトラマンメビウス初代ウルトラマンからウルトラマン80の各作品が同じ時系列の出来事だと公に設定*1した上で、25年ぶりの正統な続編として企画されたシリーズ最新作です。 こう書くとネタが尽きたための懐古&商業主義的作品と思いがちですが、実際はさにあらず。前2作にあたるネクサスとマックスがシリーズを包括*2したのを承けて、ウルトラマン(シリーズ)を更なる地平へ導かんとする円谷プロ入魂の野心作だったりもするから、あなどれません。


そんなわけで、まだ第3話までしか放映されてません*3が、さっそく考察を開始する次第。


最初のお題は、もうひとりの主人公アイハラリュウについて。彼は「ウルトラマンの去った世界を守るのは自分たち」だという使命に燃え、ジョギングの途中で「ウルトラ5つの誓い*4」の高唱を日課とする、防衛チームCREW GUYSのメンバーです。

ウルトラマンにならない男

ウルトラマンメビウスの物語は『宇宙警備隊の新米「メビウス」が、大隊長「(通称)ウルトラの父」から地球勤務を命じられて、歴代ウルトラマンのように地球で活躍できることに胸を熱くする』ところから始まります。そして時同じくして、地球には四半世紀ぶりに宇宙から怪獣が襲来*5。防衛準備に乏しい人類は、CREW GUYSを全滅され、いきなり大ピンチに。しかし「リュウ」は、地球を守るため最後の戦力である自機で特攻する覚悟を決めーー。


もし、あなたがウルトラマンメビウスについてなんの知識も持っていないのなら、上記を読んで「ははぁ、このリュウってのが、メビウスと融合するんだな。ウルトラマンは変わらないなぁ」などと、早合点でニヤリとしてるかもしれません。なぜなら歴代ウルトラマンの多くは、死に瀕した地球人と融合する形で地球に潜伏してきたのですから。ところがどっこい。この直後、リュウは同乗していた隊長*6が脱出装置を動かしたおかけで助かります。そして、光臨したメビウスが怪獣を退治するシーンを目の当たりにし、己の無力さに打ちのめされる羽目になったのでした。


一方、初陣を飾ったメビウスですが、勝利とはいえ市街に甚大な被害を及ぼす結果に終わりました。その惨状を見たリュウは、なんと正義の味方らしからぬ戦いをしたメビウスに怒鳴りつけます。「なんて下手くそな戦い方だ! 何も守れてないじゃないか!」と。浴びせられた罵声に熱き魂を感じたのか、その夜メビウスはCREW GUYSの新入隊員「ヒビノミライ」としてリュウの前に姿を現し*7、尊敬のまなざしと共に「一緒に戦わせてください!」と頭を下げるのでした。

■最終回の続きを担う男

「未熟なウルトラマン」と「ウルトラマンの志を持つ地球人」の出逢いから始まった「ウルトラマンメビウス」の物語。従来なら融合して1人の主人公になっていた2つの存在を、それぞれ独立させて主人公2人制*8とした点において、本作はすべてのシリーズ作品の続編に位置する*9といえます。


どういうことかというと、過去作品が地球人を「ウルトラマンの庇護対象」として描き、最終回で「ウルトラマンを助けるパートナー」へと成長させることで物語に幕を下ろしてきたのに対し、本作は地球人を「ウルトラマンのパートナー」として描くところからスタート*10しているのです。


だとすれば、その象徴となっているアイハラリュウは、過去作品でウルトラマンと共に戦ったすべての地球人の精神性を有していることになります。もちろん、その中にはウルトラマンと融合・分離した地球人も含まれ……。つまりリュウは、ハヤタ・ダイゴ・我夢・孤門・カイトら、歴代主人公(地球人)の「その後」に位置するキャラクター*11なのです。

■光の国を目指す(?)男

地球人の主人公が「ウルトラマンのパートナー」として共に戦う構図は、シリーズ前2作(ネクサスとマックス)でも重要な場面で描かれており、2004年以降のウルトラマンのトレンドともいえます。特にマックスでは、最終回で窮地に陥ったウルトラマンの意志によって強制的に分離させられた主人公カイトが、地球人としてウルトラマンを救う様子を描き、まるで次回作となる本作を示唆していたかのようでした。


昭和ウルトラマンへの回帰を標榜する「ウルトラマンメビウス*12」ですが、「地球人とウルトラマンのパートナーシップ」というテーマにおいては、紛れもなくネクサス・マックスに続くシリーズ最新作なのです。


さて、そのウルトラマンマックスの最終回。ウルトラマンが去っていった大団円の後に、50年後のエピローグがありました。カイトと同じ顔の孫が、銀河調査団に参加して宇宙(M-78星雲)へと旅立っていったのです。そうです、前作の最終回で地球人はウルトラマンのパートナーとして、ウルトラマンの聖地「光の国」の門を叩いたのです。


それでは、その続編ウルトラマンメビウスでは……。
もうひとりの主人公アイハラリュウが、光の国へ足を踏み入れる最初の地球人になる可能性が示唆されていると思いませんか?


どっとはらい

このエントリーの参考となるブログさん
特撮ヒーロー作戦! 彼らが結ぶ絆のように、ウルトラの各作品もまた絆でつながっている…
昭和があるからこそ、平成が生まれ、そして平成の先に、このメビウスがある。
でいりーひまつぶし"ガイア"や"ネクサス"のような、リアル路線も受け継ぎ、「人間としてのウルトラマン」を描くことで、平成ウルトラマンの系譜を見事に体現しています。
Old Dancer's BLOG 風船のシーンからミライ初登場への一連の流れ。これ、実は飛んでいってしまった風船=今まで地球を守ってくれていたウルトラマンたちなのではないかと思い至りました。だから、ミライは飛んでいってしまう風船を捕まえるのではなく、別な風船=メビウスを携えて、女の子=人間の前に現れたのですね。

*1:実際に繋げると矛盾が多いので「設定」された世界観と考えるべきでしょう。

*2:ここら辺が参考文献というか過去ログ。
http://d.hatena.ne.jp/kka/20060115/1137313495
あー、マックスもまとめたいですね。というかネクサス論の続きもあるし。

*3:1年後に読み返したらまったくデタラメなことが書いてあるかもしれません。

*4:帰ってきたウルトラマン」の最終回で、ウルトラマン(ジャック)が自分を慕う少年に残した格言。ウルトラマンが地球人に託した具体的なメッセージとしては貴重だけど、中身はどうでもいい内容。これをリュウが知っていることにより、彼が「過去作品でウルトラマンと共に戦ったすべての地球人」、すなわち視聴者だった当時の少年のその後(=現代のパパ)の精神性をも有していることを示唆してます。...ソツがないですね。

*5:このディノゾールという怪獣は、ウルトラマンマックス胡蝶の夢」で登場した制作途中の怪獣だとか。

*6:この隊長はリュウの師匠。リュウ以上に「過去作品でウルトラマンと共に戦ったすべての地球人」の精神性を宿していると考えられます。公式には「特攻して行方不明」という扱いなので、今後、キーパーソンとして再登場することは必須でしょう。楽しみですね。

*7:実際には、怪獣が飛来する前にリュウとミライが出逢うシーンがありました。このシーンのあったおかけで、リュウが変身しないことに違和感をもつ視聴者はいなかったとも言えます。丁寧な演出ですよね。

*8:ウルトラマンガイアでアグルというライバルが登場した時から、平成ウルトラマンは2人主人公の可能性を模索していたのかも。え? エースの北斗と南? いやいやw

*9:地球人が成長してる分、やってくるウルトラマンは未熟じゃないとバランスがとれない罠。ウルトラの父の人選は、きっとそういう配慮があったんですよ。地球は宇宙警備隊のO.J.T.に適当な土地なのですw

*10:これを書いてる最中に第3話「ひとつきりの命」が放映されました。あらら、コノミちゃんの「ウルトラマンを助けて、(いままで地球を守ってくれて)ありがとう、と伝えたい(うろ覚え)」という台詞にすべてがつまっちゃってるよ。

*11:こう考えれば、リュウが新しいウルトラマンと融合しなかったことにも納得が行きますよね。

*12:ちなみにこの「メビウス」というタイトル。個人的には「昭和ウルトラマンと平成ウルトラマンを表裏に見立てて、それを融合する作品」という意味が込められてるのではないかと思ってます。

Translate -末-

〈世界〉が救われてから1年。


〈少年〉は、〈夢〉の成就のために鍛える日々を過ごしていました。〈鬼〉の修行と同様に険しい道ですが、〈少年〉の決意は揺らぎません。なぜなら、その〈夢〉*1はあの戦いの果てに自分で掴んだのですから。


〈赤鬼〉と過ごした日々は、過去の思い出。〈少年〉は自分にそう言い聞かせて、<鬼の住処>に足を運ぶこともしませんでした。もしかすると、〈赤鬼〉の姿を見たら最後、せっかく見つけた〈夢〉が崩れ、再び〈赤鬼〉に師事してしまうのを怖れたのかもしれません*2


そうやって〈少年〉が引いた心の境界線を破ったのは、なんと〈赤鬼〉の方でした。ある日、〈赤鬼〉が〈少年〉の前にひょっこり顔を見せたのです*3。その場は挨拶だけで別れましたが、〈少年〉の中で〈赤鬼〉の存在は一気に膨れあがりました。


直後、〈少年〉は大きな試練に遭遇します。過去の〈少年〉なら裸足で逃げ出すような命賭けの試練でしたが、〈少年〉は果敢に挑みました。しかし、どうしてもあと少し力が及びません。脳裏にちらつく〈赤鬼〉の姿。力尽きる寸前、ついに〈少年〉は、助けを求めて〈赤鬼〉の名を呼んでしまいました。


その時、救いの手を差し伸べたのは、なんと〈赤鬼〉のもとで修行を続けていた〈影の少年〉でした*4


突然の再会に驚くのも束の間、今度は〈少年〉の家の近所に〈妖怪〉が現れたとの報せが入ります。〈赤鬼〉の名を呼ぶ〈少年〉の叫びを聞いて、 〈妖怪〉が〈少年〉の〈日常〉をも脅かしはじめたのでした。〈少年〉と〈影の少年〉は反目をやめ、平和な〈日常〉の救出に向かいます。


 〈少年〉は〈人〉として。
 〈影の少年〉は〈鬼〉として*5


2人は〈妖怪〉の出現にも臆さず懸命に戦いました。それでも〈妖怪〉には及ばず"あわや"という時、到着した〈赤鬼〉が〈妖怪〉を一蹴。〈日常〉の危機は、すんでのところで守られたのです。
この共闘を経て、〈少年〉と〈影の少年〉は互いに相手を認め合いました。それは同時に、〈少年〉が自分の〈夢〉を誇りに思った瞬間でした。その結果、〈少年〉の心の中にわだかまっていた葛藤はすべて消失したのです。


その後、〈少年〉は〈刀〉を捨てた〈赤鬼〉に本心を語りました。「〈赤鬼〉に憧れていたが、〈鬼〉にはならない」と。すると〈赤鬼〉は〈少年〉のすべてを肯定し、再び〈少年〉を受け入れたのです。 「〈俺(赤鬼)〉の側で、〈人〉として成長すればいい」と。


「〈赤鬼〉の様になりたい。
 共に暮らしたら、〈赤鬼〉みたく成長できるだろうか」


〈少年〉がはじめて〈赤鬼〉と出逢った時に願った〈夢〉の成就へと向けて、〈世界〉は動き出します。



この先、〈少年〉が壁にぶつかるたびに、心の葛藤は〈妖怪〉となって再び〈少年〉の〈日常〉を脅かすでしょう。なぜなら〈人の世界〉と〈鬼の世界〉は、〈少年〉と〈赤鬼〉の意志によって固く結びつけられてしまったのですから。そんな時、〈少年〉は〈影の少年〉と協力して克服に努め、それでも力及ばない時は〈赤鬼〉に助けを求めるに違いありません。それでいいのです、人はそうやってゆっくりと成長していくものだから。



どっとはらい


※「仮面ライダー響鬼」の制作に関わったすべての皆さま、僕と同様に物語の顛末を視聴された皆さま、本当におつかれさまでした。


響鬼Translate : [] [] [] [] [] [末]

*1:〈少年〉の〈夢〉は、〈鬼〉と同等の困難さがあれば何でもよかったのでしょう

*2:この〈少年〉の(以前に比べればささやかな)葛藤が、未だ〈鬼〉を〈刀〉の呪縛に絡めていたのでした。

*3:〈少年〉可愛さゆえの〈赤鬼〉のこの(軽率な)行為(結界破り)が、〈妖怪〉を〈日常〉に呼び出す結果になります。もっとも〈赤鬼〉は、〈少年〉と〈日常〉に対して全責任を負う覚悟ができていたんでしょうね。

*4:〈影の少年〉が〈少年〉を救ったということは、〈少年〉は〈赤鬼〉の力を借りず、自力で試練をクリアしたことを意味します。

*5:〈影の少年〉の変身は、〈少年〉が〈鬼〉に師事し続けていた場合の姿の投影でした。それは同時に、〈夢〉に向かって鍛えている〈少年〉の成長の証明ともなっています。