視聴メモ#19

久しぶりになったけどディケイドの感想

かつて、
望むと望まざるとに関わらず託された指揮棒。
魂の息吹を轟かせる役目とは裏腹に
不協和音を回避できなかった慚愧の念。
リベンジとなる十年に一度の音撃道ライブでは、
その思いに終止符を打つ力強い合奏が心に響きました。

キバと関係ないんだけど、今作の最大の見所は「仮面ライダー響鬼」を
どう描くのか? とか思い始めてます。
おそらく高寺プロデューサーの手がけた響鬼をリスペクトしなんらかの決着を
見せてくれるのだと期待する次第。
「思い出の先生」並に気合い入ってるといいなぁ。


#4の感想で書いたとおり勝手に期待してたんですが。
最大の見所かはともかく、期待通りの答えを得られたような気がします。
id:kka:20090215

超・電王シリーズについての思索


平成仮面ライダーの「全てを破壊し、全てを繋ぐ」を標榜する「仮面ライダーディケイド」。そのキャッチコピーは伊達ではなく、歴代の平成ライダー9作品の内「仮面ライダークウガ」「仮面ライダーアギト」「仮面ライダー龍騎」「仮面ライダー555」「仮面ライダー剣」「仮面ライダーキバ」の6作品は、13話までにその世界観と物語を抽象化(破壊)され「仮面ライダーディケイド」の世界と物語に吸収(繋ぐ)されてしまった。そのため、まだ未放映ながら残る三作品「仮面ライダー響鬼」「仮面ライダーカブト」「仮面ライダー電王」も、同様に抽象化されるものだと思われたのだが・・・・

1. 世界観と物語の抽象化
2. 歴代仮面ライダーのアイテム(武器とか乗り物とか)への変形

仮面ライダーディケイド」による平成仮面ライダーの「破壊(抽象化)」とは、おおよそこの2点で描写されていた。ところが14、15話で描写された「仮面ライダー電王」の場合、オリジナルとの変更(主人公の若返り)はあったものの後日談としての設定は整備されていて、一切抽象化されることがなかった。また、劇中に登場した仮面ライダー電王もアイテム(デンライナー)への変形を示唆されながら結局はもう一人の主人公であるモモタロスに変形し、自らの意志で戦い仮面ライダーディケイドと対等の立場にあることを印象づけた。これは13話までに登場した6人の仮面ライダーが、仮面ライダーディケイドの所有物と化したのと比べて破格の待遇である。


こうした背景には「仮面ライダーディケイド」の仮面ライダー電王編と同期して公開された「劇場版 超・仮面ライダー電王&ディケイド NEOジェネレーションズ 鬼ヶ島の戦艦」の存在がある。だとすれば東映の戦略的な計画に則ったビジネスかと思えばさにあらず。この劇場版は(そうは思えない出来映えだったが)かなり突貫で企画されたものらしく、「仮面ライダーディケイド」の物語にも影響を与えたらしい。「仮面ライダー電王」をオリジナルのまま引用したことや、メインライターを務めていた會川昇氏が仮面ライダー電王編を前にして降板したことなどが、その煽りだというのだ。もちろん、東映にも百年に一度の不況を前にしてなりふり構っていられない事情もあるのだろう。

参考リンク:
全国映画概況発表会見で、「仮面ライダー電王」新作発表?(1/29)
http://animeanime.jp/news/archives/2009/01/post_649.html

いずれにせよ「仮面ライダー電王」が「仮面ライダーディケイド」によって抽象化されることも吸収されることもなく、独立性を顕示してみせたのはとても興味深い。


では、なぜ「仮面ライダーディケイド」が「全てを破壊し、全てを繋ぐ」作業を行っているのかを考えてみよう。平成仮面ライダー十周年を記念したお祭り企画というのがお題目だが、ある雑誌のインタビューで白倉プロデューサーは「平成仮面ライダーのパッケージ化」と述べていた(出典・立ち読みした雑誌(雑誌名忘れちゃった))。仮面ライダーのメインターゲットである一〇才以下の子どもたちが、二〇〇九年時点において「仮面ライダークウガ」をはじめとする歴代を知らない状況を打開するために、最新の「仮面ライダーディケイド」の中に取り込むことで旧作の商品価値を再び高めようという目論見である。その目玉となる企画が、昭和仮面ライダーの人気を牽引した仮面ライダーカードを彷彿とさせる「データカードダス 仮面ライダーバトル ガンバライド」なわけだ。


いわゆる大人の事情も見え隠れする商業主義的な戦略なので、毛嫌いする向きもあるだろうが、競争力を失った過去の作品に再び脚光を当てるチャンスであり決して悪い話ではない。これがオリジナルを改変した上でそれをオフィシャルとして扱う、となるとオリジナル本来の魅力が失われるリスクも高いが、ダイジェスト的なアレンジを施してオリジナルを紹介するように配慮されているのだから、十分アリだろう。


ところが、その作戦が「仮面ライダー電王」には無用だったのである。つまり「仮面ライダーディケイド」に取り込まれることは、デメリットの方が大きいということだ。ここで連想するのはことわざの「青は藍より出でて藍より青し」である。次のような三段論法でもいい。

 【仮定】
  仮面ライダーディケイド = 平成仮面ライダー連合
  仮面ライダー電王    ≧ 仮面ライダーディケイド


 【結論】
  仮面ライダー電王    ≧ 平成仮面ライダー連合

もともと「仮面ライダーらしさ」が「仮面ライダー電王」には欠落していたことも要因ではあるが、それがこのような帰結を招くとは誰が予想できただろう。


戦後60年に及ぶ日本のコンテンツの歴史において、一つのシリーズから他のシリーズへと変容(例:空想特撮シリーズ→ウルトラマンシリーズ)することはあっても、あるシリーズから異なるシリーズが派生して、原典(仮面ライダー)と最新作(仮面ライダーディケイド)に加えて、派生作(仮面ライダー電王)の三者が対等のまま同時に展開されたことなど例がない(と記憶している)。

IT技術(特にインターネット)の発達によって二一世紀における物語の生存競争が激化の一途を辿っているのは間違いないが、その中で「仮面ライダー」さんの系譜では新たな進化がもたらされようとしているのかもしれない。そう考えると「超・電王シリーズ」の未来には、可能性を感じずにはいられない。


どっとはらい

視聴メモ#5


なるほど。
士の出現が、その世界で破滅のはじまるトリガーになってるのか。
で、折り合いつけるとエピソード完了、と。
視聴者がもとの世界を知ってるだけに効果的だなぁ。




てーことは、
「すべてを破壊し」とか「悪魔」とかってキーワードは、



『みんなの心に残る平成仮面ライダー
 グチャグチャにするよ。いいね?答えは聞いて(ry』



って、制作サイドの免罪符ってことじゃん。
言葉を選べば「決意のあらわれ」とも言う。





いいぞぉ、もっとやれぃー(完全肯定)
どんな結果になっても、オリジナルとは別腹だしな。

視聴メモ#4


とりあえず現状維持で。普通に楽しみました。



キバと関係ないんだけど、今作の最大の見所は「仮面ライダー響鬼」をどう描くのか? とか思い始めてます。おそらく高寺プロデューサーの手がけた「響鬼」前半をリスペクトしなんらかの決着を見せてくれるのだと期待する次第。「思い出の先生」並に気合い入ってるといいなぁ。





てーか、今日始まった侍戦隊シンケンジャーがかなりツボにはまって、ディケイドどころではねーとかなんとか。東映のチャンバラってお家芸だよねぇ。

視聴メモ #3.1


仮面ライダーディケイドとは、何者なのか?
メタな平成仮面ライダーというのは前提としても、それが何を意味するのか知らん?
それに思うところがあったので、ちょっと考察。


通りすがりのほにゃらら

第三話「超絶」までで垣間見せたのは、次の要素でした。

A 仮面ライダークウガ〜キバ)を滅ぼす悪役ライダーとして登場
B でも記憶がないよ
C 他の悪役ライダーも存在するよ
D おっとAに反して仮面ライダーの味方のようだ
E ひょっとして悪役ライダー軍団の裏切り者?

この要素をねぇ、ちょこっといじるわけですよ。
仮面ライダーを「人間」に、
そして悪役ライダーを「怪人」に。


するとね、あら不思議。

A 「人間」を滅ぼす「怪人」として登場
B でも記憶がないよ
C 他の「怪人」も存在するよ
D おっとAに反して「人間」の味方のようだ
E ひょっとして「怪人」軍団の裏切り者?

あっというまに「仮面ライダー」黄金パターンのできあがり。
すげぇ、まったく気がつかなかったよ。


平成仮面ライダーの物語をクウガ用語で俯瞰すると、

クウガ リントはグロンギと同質にあることが予言され、
アギト リントはクウガになり
龍騎 クウガグロンギとなり
555 リントがグロンギとなり
   (略)
電王 リントとクウガグロンギが混沌となり
   (略)

こんな経緯があったため、平成仮面ライダーではもはや人間と怪人と仮面ライダーの区別は失われてたわけですよ。で、それを前提とした上で、さらなるメタな仮面ライダーとして投入されたのが「ディケイド」ってわけですか。しかも今回、りちぎに人間をグロンギへと変貌させてたし。さすが白倉P、ここらへんを理詰めで構築させたら天下一品すぎる。


まぁ、ここまで書いちゃうと「仮面ライダーSPIRITS」に近い導入だよねぇ。
過去のライダーを紹介しつつ、新ライダー覚醒ってさ。同じ10番目だし。


とは言ってみたものの、それこそが仮面ライダーへのリスペクトであり、それをまったく感じさせないでここまで盛り上げてるんだから、匠の業と称えるしかないよなぁ。

視聴メモ #3


最終回なみのテンション。
このテンションでライダー9人分続くんだとしたら、
ものすごいことになりそうだなぁ。

なによりシビレたのは、このセリフ。
___________________
この男が戦うのは、誰も戦わなくていいようにするためだ。
自分一人が闇に堕ちたとしても、
誰かを笑顔にしたいそう信じてる。
こいつが笑顔を守るなら、オレはこいつの笑顔を守る!
___________________

クウガという作品を一言でバッサリ総括した上に
ディケイドの存在にもエクスキューズしてる。

平成仮面ライダーの「お祭り大集合」にとどまらない
叙事詩化に至る志しを感じましたよ。
すべての平成ライダーを肯定した上で
「(平成)仮面ライダー」とは、なにものだったのか?
そして今後、なにものであるべきなのか?
・・・やる気に違いない。

士が9人のライダーと出会った時、
取り戻した過去と、その旅から得たスピリットが
融合してなんちゃらかんちゃら。
「オレが、オレたちがガンダム(間違い)だ」と。
そんな展開に期待を強めた第3話でした。


関係ないけど、
平成仮面ライダーにしては珍しく
現実世界を象徴する女性がいないね。そーいえば。
このまま登場させないで、現実とはかけ離れた
ライダーバトル世界に終始するのか、
それとも士には帰るべき家(現実)があって、
そこでキレイなお姉さんが待ってたりするのかしらん。